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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
そればかりでは無い、久しい年月の間、病気と戦って臥たり起きたりしていた細君の床がすっかり畳んで片付けてあった。田辺の姉さんと言えば年中壁に寄せて敷いてあった床を、枕を、そこに身を横にしながら夫を助けて采配を振って来た人を直ぐ聯想させる。その細君が床を離れているというだけでも、家の内の光景を変えて見せた。
細君はまだ自分で自分の身体をいたわるかのように、瀟洒な模様のついた芝居茶屋の団扇などを手にしながら、
「姉さんも生命拾いをしたよ」
と自分のことを捨吉に言って見せて、微笑んだ。
「なにしろ、お前さん、彼女の病気と来たら八年以来だからねえ」とお婆さんが言った。「小父さんも骨が折れましたよ……よくそれでもこんなに快くなったと、あたしはそう思うよ……木挽町の先生なぞも驚いていらっしゃる……彼女の床を揚げて見たら、それだけ畳の色がそっくり変っているぐらいだったよ……」
自分の孫が夏休で学校の方から帰って来たかのように、お婆さんは捨吉に話し聞かせて、長い羅宇の煙管で一服やった。このお婆さんが細君のことを話す調子には実の娘を思う親しさが籠っていた。主人は他の姓から田辺を続いだ人であった。