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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
「全く骨が折れましたよ。米が病気でさえ無かったら今時分私は銀行の一つ位楽に建ててます」
と主人は心安い調子で言って笑った。書生を愛する心の深いこの主人は捨吉の方をも見て、学校の様子などを尋ねたりして、快活に笑った。ずっと以前には長い立派な髯を厳しそうに生した小父さんであった人がそれを剃り落し、涼しそうな浴衣に大胡坐で琥珀のパイプを啣えながら巻煙草を燻し燻し話す容子は、すっかり下町風の人に成りきっていた。主人の元気づいていることはその高い笑声で知れた。全く、田辺の姉さんが長い病床から身を起したというは捨吉にも一つの不思議のように思えた。
「まあ捨吉も精々勉強しろよ。姉さんも快くなったし、小父さんもこれからやれる。今に小父さんが貴様を洋行さしてやる」
「そうともサ。洋行でもして馬車に乗るくらいのエラいものに成らなけりゃ捨吉さんも駄目だ」
「貴様の知ってる通り、吾家じゃこれまでどのくらい書生を置いて見たか解らないが、何時でも是方の親切が仇になる――貴様くらい長く世話したものも無い――それだけの徳が貴様には具わっているというものだ」
こういう主人とお婆さんとの話を細君は側で静かに聞いていたが、やがて捨吉の方を見て言うだけのことを言って聞かせて置こうという風に、