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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
ていたその自分の心持をよく思出すことが出来る。
持って生れて来ただけの生命の芽は内部から外部へ押出そうとはしても、まだまだ世間見ずの捨吉の胸はあたかも強烈な日光に萎れる若葉のように、現実のはげしさに打ち震えた。彼はまたある特種の場合を思出すことが出来る。つい田辺の家の近くに住んでよく往来を眺めている女の白く塗った顔は夢の中にでも見つけるような不気味なものであった。毎日夕方からお湯に入りに行くことを日課にしているその女の意気がった髪に掛けた青い色の手絡は堪らなく厭味に思うものであった。その女が自分の大事な兄に岡惚しているという話を調戯半分に田辺の姉さん達から聞かせられても――兄は商法の用事で小父さんの家へよく出入したから――でも彼は大人の情事なぞというそういうことに対して何処を風が吹くかという顔付をしていた。「捨さん、お前さんもよっぽど変人だよ」と田辺の姉さんに笑われて、彼はむしろある快感を覚えたことを思出すことが出来る。
それを彼は高輪の方でも応用しようとした。曽て一緒に茶番をして騒いだ生徒にも。曽て揃いの洋服を造って遊んだ連中にも。曽て逢うことを楽みにした繁子や、それから彼女の教えている女学校の生徒達にも。