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くすのきのはなし

楠の話

豊島 与志雄

「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页

青空文庫

誰一人動く者もなかった。深い沈黙と影とが皆の上に蔽い被さっていた。その真中に、苔生した楠の幹を背景に、父の姿が地からつき立ったようにして浮んでいた。その眼はじっと地面に据えられていたが、広い額は空の方を向いていた。私はそれほど荘厳な父の姿を見たことはなかった。否それほど荘厳な人間の姿を見たことはなかった。私は殆んどそれが自分の父であることを、あの病み衰えた父であることを、忘れようとした。

楠の葉が一枚ひらひらと舞い落ちた。そのために一層沈黙の度が深くなった。それと共に、私の心に或る恐怖の念が萠しかけた。今にもその沈黙が破れたら、大変なことになりそうな気がした。

その時、見知らぬ人々の群の方から、一人の年取った男が立ち上った。私は思わず楓の後から駈け出そうとした。然しすぐにほっと安心した。男は父の前に丁寧に頭を下げた。それから彼は何か暫く饒舌った。すると父は二、三言それに答えたらしかった。声は私の所まで達しなかった。

男は父の答えをきいて、仲間の者等の方へ向いて屈んだ。皆その方へ寄って行った。そして彼等は相談を初めた。

暫くすると、前の男がまた立ち上って父に何か云った。