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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
03 第三部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页
運の悪い男だ、と甲斐は思った。
新八は固くなって坐り、両手を膝に支えて、細い頸の折れるほど低く、頭を垂れていた。
「この家を知っていたのか」と甲斐が訊いた。
新八は俯向いたまま、知りませんでしたと答えた。それから、顔をあげて「私は脱走者です、どうか目付役へお渡し下さい」と云った。くたびれはてたような、すっかり観念した口ぶりであった。
「どうして脱走したのだ」と甲斐が訊いた。
「兄のように、殺されると思ったのです、仙台へゆき着くまえに、途中で殺されるかもしれないと思ったのです」
甲斐は頷いた。
「いま考えると、ばかなことをしたと思います、逃げてから今日までのことを考えると、いっそあのとき、殺されるなら殺されたほうがよかったと思います」
「柿崎とは、どうして知りあったのだ」
「あの人の妹に会ったのです」と新八は答えた、「脱走して江戸へ戻って来たとき、道で偶然に会って呼びかけられ、その妹の家へ伴れてゆかれたのです」
「妹とは知りあいだったのか」
「いいえ、はい」と新八は云いよどみ、それから、渡辺九郎左衛門の側女だったと云った。
「渡辺九郎左衛門」
「はい、兄と同じときに上意討になった人です」