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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

いつそこへ来たものか、六尺ほどはなれた処に立って、甲斐のほうを、静かに微笑しながら、見まもっていた。

甲斐も微笑しながら頷いた。すると、頬にいつもの皺がより、唇のあいだから、僅かに、白い歯が覗いた。

「ここへおかけ、――」

甲斐はそう云って、腰かけている流木の場所をあけた。

宇乃はゆったりと近よって来て、甲斐のあけたところへ腰をおろした。そのとき、香料と、そだちざかりの乙女の、肌の香が、かなりつよく、あまやかに匂った。

「こんな時刻にどうして来た」と甲斐が訊いた。

「ゆうべの夜なかに立ってまいりました」

「一人でか」

宇乃は、いいえ、とかぶりを振った。

「与五が伴れて来てくれました」

「与五とは、与五兵衛か」

「おめにかかりたくって」と宇乃は云った、なにか口に含んででもいるように、声がこもって聞えた、「お帰りになるまで、待っていられませんでしたの」

「与五と仲よしになったのか」

「与五は鹿の肉をお届けにまいりましたの、ですから宇乃は、おばさまにむりにお願いして、伴れて来てもらいましたのよ」

甲斐は、うん、と頷いた。

宇乃が手をあげて、自分の髪に触ると、香料と肌の香が、またつよく匂った。