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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
03 第三部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页
さほどおくれずに追いつけると思う、と甲斐が云った。坂を下る途中で、今村善太夫らは松島へ向かい、甲斐と二人の供は、道をそれ、湯ノ原へとはいっていった。
そこは浅い谷間の湯治場で、宿は三軒あるが、二軒は自炊客だけの、掛け小屋同様のものであり、一軒だけは二階造りで、部屋数も三十ちかくあった。これは、伊達家の船蔵が松島湾の法師崎にあり、石巻街道の水主町には、水主たちが住んでいるし、家中の往来も少なくなかったから、それらのためにも、必要な設備がととのっていたのであった。
宿へ着いたのはまだ明るいじぶんで、甲斐はおくみの家にいるときの、「八十島主計」という名を名のった。
湯を浴びて、軽く食事をし、それから酒を命じた。甲斐は独りで飲んだ。喜兵衛と又之助は次の間にいて、酒や肴は又之助がはこんで来るが、用が済むとすぐにさがった。――甲斐は久方ぶりで、孤独と、もの侘しさを楽しんだ。二月といっても、みちのくは春がおそく、夜になると、まだ寒さはかなりきびしい。炭火のたっぷり熾った火桶、湯気を立てている、小さな茶釜。――古びて飴色に光っている柱や、煤けた障子や襖。行燈の光は暗くて、なにやら水墨の軸の掛っている床ノ間も、おぼろげにしか見えない。