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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

新八は声をひそめて、いつか話した人か、とおみやに囁いた。おみやは頷いた。

「向島の、あの侍だな」

「ええそう、黒田玄四郎っていう人よ」

とおみやは囁き、銚子を取って新八に酌をしてから、では済まないけれど独りで飲んでいて下さい、と云った。あたしの云うことを聞いていてね、戻って来たら話すことがあるの、聞いていてくれるわね。うん、聞いてるよ、と新八が答えた。おみやは盃で三杯、手酌で、呷るように飲み、新八に頬笑みかけてから、立ちあがって、静かに出ていった。

そのとき隣り座敷では、酒肴の膳をはこぶらしい物音がしていて、おみやの出てゆく音は聞えなかったであろう。新八は膳を窓際へ持ってゆき、肱掛け窓に凭れて、ゆっくりと飲みだした。

簾を垂れた窓のすぐ下から池で、ひろびろとした水面に、蓮が葉をうち重ねて茂り、そのところどころに、赤く白く、大きな花が咲いていた。空が曇っているので、水もにび色に光っており、ときたま、蓮の茂みの中から、なにかの水鳥が、けたたましく水を叩いたり、ひろい水面へ泳ぎ出て来て、巧みに水へもぐったりした。

「あれがかいつぶりという鳥なんだな」と新八は呟いた。