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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

おくみの兄、日本橋の雁屋信助を思いだしたのである。自分の屋敷には内通者がいる、この湯島の家も安全ではない。証書の盗まれたことがわかれば、雅楽頭らのあたまにはすぐ「原田甲斐」の名がうかぶに相違ない。したがって、屋敷やこの湯島の家は、いつかれらの手で捜索されるかもしれない。だが雁屋なら比較的そういう心配はないだろう。甲斐はそう考えたのであった。

「では今夜も泊っていって下さいますの」とおくみが訊いた。

甲斐はそれには答えずに、新八は女のことを話さなかったか、と訊いた。おくみは、いいえとかぶりを振り、女となにかあったのか、と反問した。

「いや、話さなければいいのだ」と甲斐は、盆の上のいちじくに手を伸ばしながら云った、「風呂と、雁屋へ使いを頼む」

おくみは立っていった。

甲斐はいちじくを喰べながら、庭のほうを眺めやって、ふと唇に微笑をうかべた。証書の紛失したことがわかったとき、雅楽頭がどう思うかを想像したのである。胆の太い人物だから、さしてとり乱しはしないだろうが、しかし相当に痛いことであろう。とにかく、当分そう露骨な行動はとれなくなるにちがいない、そう思って甲斐は眼をほそめた。