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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

03 第三部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 167,285 字 · 330 页

青空文庫

いや、そうではない、と玄察が答えた。

「私はここが初めてなので、昏れるまえに景色を拝見したいと、お願い申したのです」

綱宗は笑って、和尚はおれが飲みたくなったのを察したのだ、と云い、「まず、遣わそう」と盃を甲斐に与えた。

予想とはちがった静かな酒宴で、話題もごく尋常なものばかりしか出なかった。酒のなかばで綱宗が、原田はまだ鶴千代を見ていないな、と云い、抱いて来て見せてやれと命じた。かような席では、と甲斐は辞退したが、夫人の初女が老女藤井に頷き、藤井はすぐにさがっていった。

「甲斐は国許で猪の牙にかけられたそうではないか」

と綱宗が云った。玄察は盃を持ったまま、面白そうに甲斐を見やった。

「猪ではなく鹿でございます」

「おれは猪だと聞いたぞ」

「くびじろと申す大鹿でございました」

「鹿のほうが姿はよい」

綱宗がそう云うと、夫人と玄察が笑った。

その話しを聞こう、と綱宗が云った。甲斐は盃を置いて話した。玄察にはまえに話したことがある。綱宗がもし玄察から聞いたとすると、省略するわけにはいかないので、「くびじろ」が自分の宿敵であった、ということから話しだした。――殆んど十年ちかいあいだ、追いつめては逃げられたこと、そしてついに、吹雪の中で正面し、勝敗を決する瞬間に、自分の弓弦が切れた。