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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
04 第四部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页
「それはむしろ」と云いかけて、甲斐は持っていた盃に眼をおとした。その注意はむしろ七十郎自身がしなければならなかったものだろう、そう云おうとしたのだが、さすがに、それは死者への礼でないと思って、話をそらした、「――これまでにも、このことは幾たびとなく話しあって、どうしようもないということは、おまえにもよくわかっていると思うがね」
「わかっていることと、絶えまのないこの心配とはべつですわ」とおくみは云った、「夜も昼も、怯えて、かたときも心の休まる暇のないこんなくらしには、あたしはもうとても耐えてゆくことはできません」
「よくお聞き」甲斐はなだめるように云った、「おまえは私が闇討ちにされることを恐れている、つまり、私がいつ誰かに殺されるかもしれない、ということで怯えている、そうだね」
「国老の職を辞任することはできる筈でしょう」とおくみが云った、「松山さまもいちど、御病気という理由で国老職を辞任なすったことがございます」
「私の云うことを聞いてくれ」
「いいえ、あたしの申上げることも聞いて下さい」おくみの顔は蒼白く硬ばり、眼尻がつりあがっていた、「船岡にいらっしゃる帯刀さまはもう二十五におなりです、あなたが国老を辞任なさり、帯刀さまに跡目を譲って御隠居をなすっても、決して早すぎはしません、世間ではごくあたりまえのことで