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りそうのおんな

理想の女

豊島 与志雄

「新小説」1920(大正9)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 38,162 字 · 77 页

青空文庫

しまいには口を噤むより外に仕方がなかった。然し、いつもの喧嘩なら、互に殴り合わんばかりに激昂し熱してくるのだったが、この時ばかりは、反感や憤りが内へ内へと沈み込んで、二人の間の空気は、氷のように冷たくなった。表面だけが冷然と落付き払って、心の底が暗い影に脅かされた。私達は長い間、石のように固くなってじっと向い合っていた。その或る日、私は外に出ないで、終日書斎にとじ籠っていた。訳の分らない懸念が、私を家の中に引止めたのであった。私はしきりに階下の物音が気になった。然し家の中は静かだった。何事も起らなかった。夕食は沈黙の間に終った。私はまた二階に上った。しいて書物を読んだ。気を落付けるために、長谷川へ手紙――取り留めもない感想――を書いた。そのうちに気が散らなくなった。私は凡てを忘れて、近着の外字小説を読み初めた。

何時頃だったか私は覚えていない。あたりはしいんと静まり返っていた。夜遅く書物を読んだり考え事をしたりしていて、ふと我に返ると、何等の物音も聞えず、何の気配もせず、時もその歩みを止めてるような静けさがあたりを支配し、宛も深い水底にでも陥ったような心地がし、凡ての物象が妙に冴え返ってくる瞬間が、よくあるものである。