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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

そのあとも、ただ、

「それはさぞかし、お困りだろうが」

とだけ呟いて、苫の蔭なる俊基へ、眼問いしている風だった。

俊基は、そこから、隣舟の若い男のすがたを、月の波映の中に、まざと見ていた。

浅黄布の粽頭巾に、つづれてはいるが派手っぽい肩衣を着、冠者袴という身なりは、すぐ芸人とわかる者だった。

けれど、面ざしは賤しくなく、難をいえば、三十すぎの壮者にも似ず、どこやら神経質にみえる。が、それも稼ぎの弱い舟芸人が病人を抱えての、世帯苦労のせいかとも、察しられなくはない。

「菊王」

「はい」

「気のどくそうな。……ま、暫時ならば、心配なく用事に行って来るがよいと、申してやれ」

「そういたしますか」

と、菊王は、隣舟の男へ。

「おあるじが、ああ仰っしゃって下された。しかし、こちらも、泊り舟ではない。早く帰ってくれぬと困るが」

「はい、はい。……ありがとうぞんじます。では、大急ぎで行ってまいりますれば」

「街へ何しにおいでなのか」

「それがでございますよ」

と男は、いちど苫へ入って、妻の枕もとへかがんでいた。何か病人へ言いふくめてでもいるらしい。それからまた、舟べりへ姿を見せて。