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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

ところが。――その豊麻呂もなかなか戻って来なかった。すでに午すぎ。やっと帰っては来たが、その姿は、朝にもまして疲労と埃にまみれていた。

「どうした? 豊麻呂」

「なんとも、解せぬことになりました。八荒坊が討たれたらしい形跡もなく、頼春と菊王の安否の程もわかりません」

「さては、不首尾か」

「が、部下どもの探りによれば、天見の辺では、八荒坊にもあらぬ偽山伏の放免の死骸が、幾つか見られ、そのどれもが、みな矢キズを負っていたと申しまする」

「はての。二人は、弓は持たなかったはず。さらには、同類の偽山伏が、ほかにも大勢いたとすれば、何ぞの手違いが、起ったものに相違ない」

「されば、放免どもはいつか、弁ノ殿がここにお潜みのことまで偵知したらしく、日頃から居る地元の諜者もみな挙げて、ここの出屋敷のぐるりを見張っておりまする」

「なに、ここをも?」

俊基は、愕とした。

すべては破綻か、と思わぬわけにゆかなかった。そして常々、ふところの深くに持っていた一包の毒薬が、すぐ意識となって、肌の毛穴に、人知れず、覚悟をそそけ立たせてくる。

いちどは鎌倉に囚われた前科の身だ。絶体絶命とみたら、いつでも護持する綸旨を灰として、自身は毒を仰服ぐ決意を秘めていたのである。