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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

といって、夜舟ばなしに夜を更かしていられる境遇でもない。すぐ棹を取って、彼の舟と離れながら、

「なにしろ、舟住居ではたいへんだな。大事になさいよ。赤子もお内儀も」

「ありがとうございました。おかげで乳呑みにも、さっそく、葛粉を掻いてやれまする。いずれへのお旅路やら存じませぬが、あなた様方も、お気をつけて」

「ああ、夜がすみが深くなったな。月もぼやけて来たし」

「ままこの先の洲では、川の衆でも、よく舟底をのし上げます。御用心なされませ」

「おおよ。おさらば」

川面を這う白いものに、もう相互の舟影は、朧々になっていた。

ややしばらく、菊王の棹は、水の流れを探り探り、人なき岸もやと、さまよっていた。

陸へ上がって、深夜の潜行へ移るには、まだ時刻が早い気がする。さればとて、河心は流れが早いし、岸は油断がならないし、気が気でない。

すると、朧な中に、櫓音が聞え、つづいて、

「旅のお方。……もうしっ。さきほどの、旅のお方」

と、つい今しがた、別れて来たばかりの男の声が近づいて来た。

舟影はすぐ見えた。男は、櫓づかを片手に、

「少々、お待ち下さいまし。お呼びとめして、重ねがさね、失礼ではございますが」