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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

「これは、これは。散所屋敷の若殿さまで」

「前夜、わしの向けた家人どもへ、あいさつに出たのは、そのほうか」

「はい。てまえでしたが」

「なぜ、雨露次夫婦は、迎えをよろこばぬのであろ。当方の意を、そのほうまでが、思いちがいしたものか」

「滅相もない。ありがたいおぼしめしは、よう伝えもしましたし、当人どもも分っているはずでございますが」

「ともあれ、わしが直々会おう。会ってよう得心させようぞ。呼んでくれい。夫婦の者を」

「ちょっと、お待ち下さいまし」

あたふたと、彼はすぐ、観音堂の方へ走った。

が、豊麻呂は待ちあぐねた。――また、さっきから山門の袖に佇んで様子を見ていた一武士も来て、彼と何かきあい、やがて肩を並べて、藁葺御堂の方へ、一しょに歩み出していた。

そして、そこの縁に、茫然と、ただ立っているだけの妙達を見たのであった。――その妙達の口から、夫婦の姿も見当らず、夫婦が毎日供養していた子の骨つぼもないと聞いて、

「さては、昨夜のうちに。……正季どの。残念だったな」

豊麻呂は、一方の侍をかえりみて、憮然とした。――が、うつろな面を、御堂に向けたまま、惨として、涙を内にのんでいるらしいその侍の姿を、見るに耐えぬかのようにすぐ眼をそらした。