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しんのゆうしゅう
秦の憂愁
豊島 与志雄
「文芸」1944(昭和19)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,389 字 · 19 页
「送らせますから、すぐお帰り下さい。」
返答の余地をも与えぬほど厳とした言葉だった。先刻の青年の一人が三輪車を走らして来た。星野は青年と並んでそれに乗った。車夫は何等の好奇心も興味もないもののように、ペダルを踏んだ。
星野はそれきり、秦啓源には逢えずに、日本へ帰った。迂濶にも秦の居所を聞いておかなかったのである。然し尋ねたとて秦は恐らく教えはしなかったろう。
出発まで、彼は秦を探したが、探す方法の手掛りさえもなかった。或る時、南京路の人込みのなかで、あの時の青年の一人を見かけたように思ったが、先方で隠れたのか、即時に見失ってしまった。彼は四日後に、早朝、飛行機で日本へ飛ぶことになった。
彼は出発前、秦啓源への伝言を私に託した。もしも逢えたら……と私は答えた。その代り私は、張浩の死を彼に知らせた。政治的なまたは思想的なテロの犠牲ではなく、なにか商取引にからんだ事件らしいと、私は力説したが、彼はなかなか信じなかった。ただそう信ぜよと言っても無理だったろう。然し私の言葉は真実なのである。私はこの事件によって、秦啓源の生活をかなり詳しく知ることが出来た。