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しんのゆうしゅう

秦の憂愁

豊島 与志雄

「文芸」1944(昭和19)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,389 字 · 19 页

青空文庫

星野はじっと眺めた。三十年配の頑丈な男で、折目の着くずれた背広服をつけ広い額と低めの鼻とが目についた。

星野は行くことにきめた。

「場所は、遠いんですか。」

「近くであります。」と男ははっきりした日本語で答えた。

星野は電話にかかって、その晩逢うことにしていた知人に、差支えが出来た旨を断り、帽子を取って出かけた。途々、彼は秦啓源の近況を案内者に聞くつもりだったが、案内者はひどく鄭重な無言な態度だったし、ホテルの前には三輪車が待たしてあった。すべては逢ってからだと星野は考えた。

よく気が廻る星野のことだから、普通ならば、ちょっと訝しく思うところだった。秦啓源は彼の宿所を知っており、しかも彼に宛てた名刺には室番号まで書き添えているのに、今まで、姿を見せないばかりか電話さえもしなかったのである。そのことを星野は、旅先の習わしで不問にしたのか、或は忘れていた。とにかく彼は、虚を突かれた形だった。

秦啓源の方では、星野を迎えることを、嘗て親しかった知人への儀礼とぐらいにしか思っていなかったらしい。

その夕方、実は、私は彼と三馬路の一隅で、秋の季節の無錫料理を味わっていたのである。