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しんのゆうしゅう
秦の憂愁
豊島 与志雄
「文芸」1944(昭和19)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,389 字 · 19 页
日本の各社会層にはその社会層特有の訓練があるもので、その訓練が身について教養となる。このことを観取しなければ日本人の美点は分らない……。
論旨が、秦啓源に理解されたかどうかは、星野にも分らなかった。なにしろ、酔った上でのことだ。然しながら、思い出すと星野は苦々しかった。ばかばかしいことを論じたという気がした。二人の愛情のことだけを尋ねて、慰めてやればよかったのだ。
そのことをも、星野はもう殆んど忘れていた。ただあの街頭の一瞬の情景だけが、後になるほどへんに生々しく浮んでくるのだった。
その情景は遠く、蘇州美人の面影は手近にぼやける……。街衢の騒音がすべてを呑みつくそうとするのだ。そういう状態で星野がぼんやりしている時、静に扉が叩かれて、老年の室付ボーイがはいって来た。一葉の名刺を差し出した。
大型の名刺で、ただ姓名だけ、秦啓源と印刷してあった。鉛筆で簡単な書き込みがあった。――御隙ならば御来駕願い度く、この使者が御案内仕る可く、当方より参向すべきを、失礼の段御容赦下され度く候。
星野は飛び上った。廊下には一人の中国人が待っていた。招じ入れると、彼は恭しく一揖して、扉のそばに佇んだきりだった。