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きくちよしょう

菊千代抄

山本 周五郎

「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页

青空文庫

……その沈黙はごく短い時間であった、池畔にいた一人が袴のまま池の中へはいって来て、「なにを云うのか、おまえは悪いやつだ」

こういう意味のことを叫んで、その暴言を口にした者を突きとばした。そうして菊千代の肩を抱くようにして、池から助けあげるところへ、松尾が走って来たのである。……菊千代は泣きだした、泣きながら松尾にとびつき、みんなの眼から逃げるように、松尾の手を掴んで御殿のほうへ駆けだした。

不謹慎なことを云った子供は、すぐに中屋敷からいなくなり、その後どうしたかまったく菊千代は知らない。彼を突きとばしたのは椙村半三郎で、そのとき八歳だったが、透きとおるような膚の、おもながで眉のはっきりした、きわめておとなしい子であった。

たぶんお相手の子供たちが話したのだろう、菊千代はなにも云わなかったのに、松尾はその暴言を否定して、そんな異常なところは決してないこと、もしあるとすればいつも侍医が診ているのだから、それだけの治療をする筈であることなど、いろいろと説明して呉れた。……菊千代はそれを信じ、あんな不謹慎なことを云ったのは卑しい悪い子であると思った。そしてその暴言そのものはまもなく忘れてしまったが、そのとき受けた恐怖のような感動は消えなかった、意識のどこかに傷のように遺っていて、ときどき菊千代自身、びっくりする