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きくちよしょう
菊千代抄
山本 周五郎
「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页
竹次のことはあとから使いで取消し、援助を続けるようにと云ってやったが、楯岡のほうは命じてしまったので、侍たちがいって彼を屋形へひき取った。これは菊千代は知らなかったが、ある日、森の柵のところでふいに彼と出会い、びっくりして顔を眺めた。
「――おおこれは……」楯岡もひどく狼狽したようすで、うしろへさがりながら低頭した、「――お情けをもちまして、御邸内に住まわせて頂いております……とつぜんお眼をけがしまして、まことに……」
そして低頭したまま、逃げるように侍長屋のほうへ去っていった。その背丈の高い、肩の跼んだようなうしろ姿を見やりながら、菊千代は呼びとめて話しかけたいという強い誘惑に唆られた。……彼が源太の小屋にいるじぶんから、いちど身の上を聞きたいと思った。そればかりでなく、ふとすると彼とならうちとけた話ができそうに思えた。
――素姓を隠して、こんな山の中へれて来て、ひっそりと病を養っている、訪ねて来る者もないらしい、家族なども有るのか無いのか。……
その孤独な姿には菊千代と共通するものがある、それが心をひくのであろう。柵の側で出会ってからのちも、しばしば屋形のうちそとでみかけることがあった。