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きくづきよ
菊月夜
山本 周五郎
「講談雑誌」博文館 、1944(昭和19)年10月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,129 字 · 32 页
「……わたくし、松谷の小房さまとお親しくしておりました」涙の溢れそうな眼で信三郎を見あげながら、絢子は切なげな口ぶりでしずかに云った、「わたくしのような者には、もったいないほどの良いお友達でございました。あのようなご不幸なお身の上になって、この朝夕をどうしていらっしゃるかと思いますと、……わたくし申上げようのない悲しい気持でございます」抑えかねた嗚咽を隠すようにしばらく面に袖を当てていたが、すぐにまた言葉をついだ、「……今宵の祝言をあなたさまがどのようなお気持でご承知なさいましたか、それもおぼろげにはお察し申しております、ご心配くださいますな、わたくしは決して、……決して」
そのあとは、続かなかった。信三郎は、烈しく心をうたれた、ここにも自分を棄てようとする人がいる、乙女の身としていちど祝言の盃を交わせば、もはやその一生は動かすことができない、しかも絢子は初めからまことのめおとになる望みを捨て、信三郎を必要な位置にすすめるためにその盃を執ったのだ。――武士の女だ、信三郎はそう思った、しかしそれは彼にとって、二重の苦しみであった。これほどの遠慮をそのまま受けてよいかどうか、けなげな覚悟であるだけに、それをそのまま受け取ることがはたして正しいかどうか、若い彼には新しい重荷が加えられた感じである。