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なおこ

菜穂子

堀 辰雄

楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页

青空文庫

早苗はその日もとうとう自分の話を持ち出せなかった。日が暮れかかって来たので、明だけを其処に残して、早苗は心残りそうに一人で先に帰って行った。

明は早苗をいつものように素気なく帰した後、暫くしてから彼女がきょうは何んとなく心残りのような様子をしていたのを思い出すと、急に自分も立ち上って、村道を帰って行く彼女の後姿の見える赭松の下まで行って見た。

すると、その夕日に赫いた村道を早苗が途中で一しょになったらしい例の自転車を手にした若い巡査と離れたり近づいたりしながら歩いていく姿が、だんだん小さくなりながら、いつまでも見えていた。

「お前はそうやって本来のお前のところへ帰って行こうとしている……」と明はひとり心に思った。「おれは寧ろ前からそうなる事を希ってさえいた。おれは云って見ればお前を失うためにのみお前を求めたようなものだ。いま、お前に去られる事はおれには余りにも切な過ぎる。だが、その切実さこそおれには入用なのだ。……」

そんな咄嗟の考えがいかにも彼に気に入ったように、明はもう意を決したような面持ちで、赭松に手をかけた儘、夕日を背に浴びた早苗と巡査の姿が遂に見えなくなるまで見送っていた。