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かとにん

過渡人

豊島 与志雄

「帝國文學 第二十二卷第四號」1916(大正5)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,206 字 · 41 页

青空文庫

そしてその日も、笹尾の帰りに老母の見舞のしるしに若干の金を包んで与えたことを語った。「余りに失礼ですがと云ってお詑びを云いましたら、笹尾さんはいいえと云ったきり黙って頭を下げていました。私の方が涙が流れそうでございました。」

矢島さんは黙って妻の言葉をきいていた。そして云った。

「俺達が笹尾の境遇になったらお前はどうする?」

常子の眼には一寸困惑の色が見えた。それから次第に高慢な光りに代ってきた。

「まあいいさ、なってみなくちゃ分らない。だが笹尾もつまらない目に逢ったものだ。」

「会社に来たらお逢いになりまして?」

「ああ逢ってやるとも。少し話したいこともある。」

「ではまた何かにお世話なさるんでしょう。ほんとにそうしておやりなさいませ。あれで大変正直ないい人なんですから。」

「正直でなけりゃまた俺の所へなんか来れるものか。……然し……。」

矢島さんは中途で言葉を切った。そして冷たいお茶をぐっと呑み干した。

「菓子折一つでお前もすっかり笹尾党になってしまったわけだね。お目出たいことだ。」

「ええ私が!……そんな卑しい……。」

「まあいいよ。」と矢島さんは常子の言葉を遮った。