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いんじゅう
陰獣
江戸川 乱歩
「新青年」博文館、1928(昭和3)年8月増刊~10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 66,968 字 · 131 页
「どうしました。何を見たんです」
私が驚いて尋ねると、静子は片手では、まだしっかりと私に抱きつきながら、一方の手でガラス窓の外を指さすのだ。私も一時は春泥のことを思出して、ハッとしたが、だがそれは何でもなかったことが、間もなく分った。見ると窓の外の庭の樹立の間を、一匹の白犬が、木の葉をカサカサ云わせながら、暗闇の中へ消えて行った。
「犬ですよ。犬ですよ。怖がることはありませんよ」
私は、何の気であったか、静子の肩を叩きながら、いたわる様に云ったものだが、そうして何でもなかったことが分ってしまっても、静子の片手が私の背中を抱いていて、生温い感触が、私の身内まで伝わっているのを感じると、アア、私はとうとう、矢場に彼女を抱き寄せ、八重歯のふくれ上った、あのモナ・リザの唇を盗んでしまったのである。そして、それは私にとって幸福であったか不幸であったか、彼女の方でも、決して私をしりぞけなかったばかりか、私を抱いた彼女の手先に、私は遠慮勝ちな力をさえ覚えたのであった。
それがなき人の命日であった丈けに、私達は罪を感じることが一入深かった。二人はそれから私が自動車に乗ってしまうまで、一言と口を利かず、目さえもそらす様にしていたのを覚えている。