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いしがおごる

いしが奢る

山本 周五郎

「サンデー毎日臨時増刊仲秋特別号」毎日新聞出版、1952(昭和27)年10月19日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,304 字 · 45 页

青空文庫

二人は廊下から床へ出ていった。

思ったほどではないが、寒さは強かった。空が曇っているので、海は暗く漁火も見えなかった。保馬の手はいしの肩を抱いた。いしの手は保馬の躯に巻かれていた。寒さがきびしいので、お互いの躰温がいっそう温たかく感じられるようであった。

「もう四五日すると江戸へ帰る」と保馬が云った、「はなしは聞いたろうね」

いしはこくんと頷いた。躯がひどく震えだしたので、保馬はきつく抱き寄せた。

「でもあたし、わたくし、とても……」

「いやだというのかい」

「いいえ」強く首を横に振った、「とても本当とは思えないんです、今でも本当とは思えませんの、夢でもみているような気持ですわ」

「それでいいじゃないか、一生さめない夢にすることだってできる」

いしは躯をすり寄せた。巻きつけた腕に力をこめ、保馬の胸へ顔を伏せた。

「あのお扇子を返して下さいましね」

「返すよ」

「本当に江戸へゆけますのね」

「もちろんだよ」

いしはくくと咽びあげた。

「じゃああたし、ずいぶん儲かっちゃいますわね」と咽びあげながら云った、「――もうしみ抜き代を払わなくってもよくなるんですもの、ねえ、そうですわね」