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ちくしょうだに
ちくしょう谷
山本 周五郎
「別冊文藝春秋」1959(昭和34)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 69,788 字 · 138 页
向うはまだ暗く、岩地の急斜面は白くて濃い雲の中へおりてゆくが、その白い雲のほかにはなにも眼につく物はなかった。――この山を越して隣りの領地へぬけるには、「木戸」のあるその鞍部しかない。戦国末期まではそこに砦があったというが、木戸が造られてからでも百五十年以上は経っている。山越えをするには唯一の地形なので、ひそかに物資を移出入する者や、逃亡する罪人や、また御用林を盗伐に来る者などがあり、現在でもなかなかゆだんはできなかった。
棚雲をぬいて陽が昇り、岩の斜面が眩しく光った。隼人は戻って、木戸へさがる道とは反対のほうへ曲ると、突然、そこの岩蔭から人が出て来、危うくぶつかりそうになった。しかし相手は、隼人の来ることを期待していたらしく、一と足さがりながら礼をした。
「西沢です」と彼は云った、「西沢半四郎です、ちょっと話したいことがあるのですが」
隼人は相手を見た。枯木か石ころでも見るような、感情の少しもない平静な眼つきであった。
「御用のことなら聞きましょう」と隼人は云った、「だが、御用以外のことは断わります」
「そうでもありましょうが、織部どのとのはたしあいについて、一言だけ聞いて頂きたいのです」