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ちくしょうだに

ちくしょう谷

山本 周五郎

「別冊文藝春秋」1959(昭和34)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 69,788 字 · 138 页

青空文庫

おそらく感情をしずめるためだったのだろう、やがて戻って来て坐り、炉に掛っている茶釜から、湯呑に茶を注いだ。すると、ひなた臭いような枸杞の香が、隼人のところまで匂って来た。

「貴方の御思案に水をさすようなことを申上げたのは、こういう経験があるからです」と老人は微笑しながら云った、「それだからおやめなさいなどとは申しません、この部落をこんな状態のままにしておくことは、住民が哀れだというだけでなく、御領主の面目にもかかわることです、いつか、誰かが、しんじつ立ってこの仕事をやらなければならない、それには事実がどんなに困難であるか、ということに当面する勇気と、中途で挫けない忍耐力が必要です」

「御妻女はいつごろ亡くなられたのです」

「八年になりますかな、――あの墓地の、娘の側へ埋めてやりました、私もやがてそこへ埋めてもらうつもりです」

隼人は老人を見て云った、「あやというあの娘だけは、まだ稽古を続けていると云われましたね」

正内老人はじっと隼人の眼を見返した。

「諄いようですが」と老人は云った、「私の経験したことと、ここがちくしょう谷と呼ばれていることを、お忘れにならないで下さい」