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ヘヤーピンいっぽん

ヘヤーピン一本

豊島 与志雄

「人間喜劇」1948(昭和23)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,246 字 · 17 页

青空文庫

極りわるそうな風もなく、悲しそうでもなく、微笑の影も浮べず、没表情な顔に返っている。

「いろいろ、ありがとうございました。これから、くにへ帰ります。」

丁寧なお辞儀をして、あとしざりに、室から出て行った。

久子さんが玄関まで送ってゆき、しばらく手間取った。

俺も岩木も黙っていた。

久子さんが戻ってくると、岩木はいぶかしそうに彼女を眺めた。

「お前はへんだったよ。あの娘と、まるで、前から識り合いみたいだ。」

「だって、可哀そうです。」強い語調だ。「重そうなカバンをさげていましたわ。」

「市役所からここまで、なんのために来たのかなあ。」

「お礼を言いに来たと、申しておりました。」

「帰りに何か言ったかい。」

「くり返しお礼を言って、それから、御気嫌よろしゅう、と言いました。」

「なに、御気嫌よろしゅう………まるで貴婦人みたいじゃないか。」

久子さんは気を悪くしたらしく、黙りこんでしまった。――それからずっと、彼女はあまり口を利かなかったようだ。ちょっと気が立って、中途で機嫌をわるくし、そのまま人形めいた平常に滑りこんだのであろうか。

俺ははじめて口を開いた。

「貴婦人でそして無筆だろう。