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マルクスしゅぎとゆいぶつろん
マルクス主義と唯物論
三木 清
「思想」1927(昭和2)年8月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 21,739 字 · 43 页
私がいま机を買いに行くとする。私は家具屋の主人に向って「机をくれ」という。このとき彼は私をただちに理解して、若干の机を取り出して私に示すであろう。彼が私を理解し得るのは机が言葉において中和的にされているからである。家具店よりの帰途私は電車に乗る。車の中には高位高官の人もあるであろう。場末の商人もあるであろう。また悲しみに充てる人もあり、喜びに溢れたる人もあるであろう。しかしながらこの場合それらの人々のすべては乗客という言葉において凡庸化され、むしろこの言葉の見地から経験されるのである。そのとき二、三の空席が車中に見出されるならば、私はそのいずれであるかを構わず私に与えられた席に腰を卸すであろう。それはそれらの空席がすべて空席として中和的にあるからである。存在がかくのごとく中和性においてあることによって、我々の特に社会的なる実践は可能になる。机がもし中和的に存在し得ないならば、商人は机を売り、私は机を買うことは不可能であるであろう。言葉はその根源性において理論的でなくかえって実践的である。存在の凡庸性の現象はこのことを何よりも明らかにする。言葉が本来社会的実践的であるということを理解するのは、ロゴスとともにまず第一に論理あるいは理論を考えることに慣れている今の人々にとって極めて大切である。