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せそう

世相

織田 作之助

「人間」1946(昭和21)年4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 32,089 字 · 64 页

青空文庫

と私は天辰の主人の方を向いて、

「――あの公判記録は助かりましたか」と訊くと、

「いや焼けました。金庫と一緒に……」ぽつんと言って、眼をしょぼつかせ、細い指の先を器用に動かしながら、机の上にこぼれた酒で鼠の絵を描いていた。

「そりゃ惜しいことしましたな。帝塚山のお宅の方は助かったんだから、疎開させとけば……」と言い掛けると、

「阿呆らしい。帝塚山へあの本が置けるものですか。第一……」

そして暫らく言い詰っていたが、やがて思い切って言いましょうと、置注ぎの盃をぐっと飲みほした。

「――実はお二人の前だけの話だけど、あのお定という女は私と一寸関係がありましてね……」

「えっ?」

「話せば長いが……」

店が焼けてから飲み覚えた酒に、いくらか酔っていたのであろう、天辰の主人は問わず語りにポツリポツリ語った。

――天辰の主人は四国の生れだが、家が貧しい上に十二の歳に両親を亡くしたので、早くから大阪へ出て来て、随分苦労した。十八の歳に下寺町の坂道で氷饅頭を売ったことがあるが、資本がまるきり無かった故大工の使う鉋の古いので氷をかいて欠けた茶碗に入れ、氷饅頭を作ったこともある。