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たんげさぜん

丹下左膳

林 不忘

01 乾雲坤竜の巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 340,187 字 · 666 页

青空文庫

そうよ。今のが大岡さまだ! 南町のお奉行大岡越前守忠相様!」

「知らぬこととはいいながら」婆さんは浄瑠璃もどきだ。

「ああありがたい。いっそもっとおそばによって、よくお顔を拝んどきゃよかったよ。ねえ、お爺さん、この話は孫子の代まで語り草だねえ」

「そうとも、そうとも! うしろ影なりと拝みなおすこった」

「こちとら、こんな時でもなけりゃあお奉行さまなんか顔も見られねえ。よし! 長屋じゅうへふれてみんなを呼んでこよう」

鍛冶富が駈け出そうとするのを、喜左衛門がとめた。

「富さん! もったいねえことをするもんじゃねえ。おしのびでいらっしゃるんだ――」

土下座をせんばかりに喜左衛門夫婦と鍛冶屋富五郎がガヤガヤしているのを、仔細を知らない通行人がふしぎな顔で見て通る。

そのうちに。

うららかな陽を全身に浴びた大岡忠相。きょうは文字どおりの忍びだから、手付きの用人伊吹大作ただ一人を召しつれて、さっさと角をまがってしまった。

どこへ? というあてもない。

いわばぶらぶら歩きである。

民情に通じ、下賤を究めることをもって奉行職の一必要事と観じている越前守は、お役の暇を見てよくこうして江戸の巷を漫然と散策することを心がけてもいたし、また好んでもいたのだ。