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たんげさぜん

丹下左膳

林 不忘

01 乾雲坤竜の巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 340,187 字 · 666 页

青空文庫

「むろん、御勝手じゃ!」

決然と畳を蹴立てた多門へ、ひしゃげたような藤次郎の声が追いすがった。

「土屋氏!」

「なんじゃ?」

「貴殿栄三郎に会わるるか」

「会うても仔細あるまいが!」

「会うたら……おうたら、兄が達者で暮らせといったとお伝えください」

プイと横を向いた藤次郎の眼に何やら光ったもののあったのを多門は見た。

夕映えの空に、遠鳴りのような下町のどよめきが反響して、あわただしいなかに一抹の哀愁をただよわせたまま、きょうも暮れてゆく大江戸の一日だった。

麹町三番町の屋敷まちには、炊ぎのけむりが鬱蒼たる樹立ちにからんで、しいんと心耳に冴えわたるしずけさがこめていた。

たださえ、人をこころの故郷に立ち返らさずにはおかない黄昏どき……まして、ものを思う身にはいっそう思慕の影を深める。

うっすらとした水色が、もう畳を這っているのに、弥生はこの土屋多門方の一間に身動きもしないで、灯を入れるしたくをすら忘れて見えるのだった。

庭前の山茶花が紅貝がらのような花びらを半暗に散らしている。

ふと顔をあげた弥生は、思いがけない運命の鞭を、あまりにもつぎつぎに受けたせいであろうか、しばらくのあいだに頬はこけ肩はげっそりと骨ばって、世のけがれを知らなかったつぶらな眼もくぼみ、まるで別人のようないたいたしいすがたであった。