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いまどしんじゅう

今戸心中

広津 柳浪

「文芸倶楽部」1896(明治29)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,688 字 · 74 页

青空文庫

上草履の音はしばらくすると聞えなくなッた。善吉は耳を澄ました。

「やッぱり去らないんだと見えらア。去らなきゃア吉里が来ちゃアくれまい。ああ」と、善吉は火鉢に翳していた両手の間に頭を埋めた。

しばらくして頭を上げて右の手で煙管を探ッたが、あえて煙草を喫もうでもなく、顔の色は沈み、眉は皺み、深く物を思う体である。

「ああッ、お千代に済まないなア。何と思ッてるだろう。横浜に行ッてることと思ッてるだろうなア。すき好んで名代部屋に戦えてるたア知らなかろう。さぞ恨んでるだろうなア。店も失くした、お千代も生家へ返してしまッた――可哀そうにお千代は生家へ返してしまッたんだ。おれはひどい奴だ――ひどい奴なんだ。ああ、おれは意気地がない」

上草履はまたはるかに聞え出した。梯子を下りる音も聞えた。善吉が耳を澄ましていると、耳門を開ける音がして、続いて人車の走るのも聞えた。

「はははは、去ッた、去ッた、いよいよ去ッた。これから吉里が来るんだ。おれのほかに客はないのだし、きッとおれのところへ来るんだ。や、走り出したな。あの走ッてるのは吉里の草履の音だ。裏梯子を上ッて来る。さ、いよいよここへ来るんだ。