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えせものがたり
似而非物語
山本 周五郎
「週刊朝日涼風読物号」朝日新聞出版、1952(昭和27)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 31,817 字 · 64 页
その犬の鼻づらはちょうど杢助の喉首へんに当っていたそうであるが、いきなり顔と顔をつき合せたので、杢助は驚きと恐怖のあまりたちどころにくる眼を起こした。片方の黒眼はあっちへ動き、片方のそれはこっちへ動いた。それだけではない、双方の黒眼がくるくると勝手なほうへ活動し始めた。これには食いつき犬も仰天したらしい、ううと唸り、背筋の毛を逆立てながら、そのぶきみさにおそれをなして、じりじりと後へしさりだした。たくましく巻き上った尻尾もいつか股の間へ挾まっていたが、杢助の眼球がうしろまえになったとたん、きゃんきゃんと悲鳴をあげて、まっしぐらに西南へ向って逃げだした。勝山城下へ通ずる谷峠の方へ向って、弾丸のようにすばやく逃げ去ってゆき、二度とこの村へは姿をみせなかったそうである。くる眼とはこういうものであった。強く叱るとか折檻するとか、なにかしら激しい感動を与えると、たちまちその発作が起こる。しぜん父親もそうきびしくはできなかったし、杢助は怠け者のまま育っていった。
彼は十八歳のときに村を出奔した。村では娘たちが彼を追い出したのだと云った。
杢助は十四五から背丈が伸び、男ぶりもよくなった。