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めいじんじごく

名人地獄

国枝 史郎

「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页

青空文庫

北山時雨で越後は雨か

この雨やまなきゃあわれない

続けて唄う追分が、長い尾をひいて消えた時、

「うまい」という声が聞こえて来た。で、ヒョイと振り返って見た。若い侍が立っていた。

「かこなかなか上手だな」至極早速な性質と見えて、その侍は話しかけた。

「どこでそれほど仕込んだな?」

「これはこれはお武家様、お褒めくだされ有難い仕合わせ」かこは剽軽に会釈したが、「自然に覚えましてございますよ」

「自然に覚えた? それは器用だな」こういいいい侍は、帆綱の上へ腰を掛けたが、「実はなわしにはその追分が、特になつかしく思われるのだよ」

「おやさようでございますか」

「というのは他でもない。その文句なりその節なり、それとそっくりの追分を、わしは信州の追分宿で聞いた」

するとかこは笑い出したが、「甚三の追分でございましょうが」

「これは不思議、どうして知っているな?」

「信州追分での歌い手なら、私の兄の甚三が、一番だからでございます」

「お前は甚三の弟かな?」

「弟の甚内でございます」

「そうであったか、奇遇だな」侍はちょっと懐かしそうに、「いや甚三の弟なら、追分節はうまい筈だ」

「ところがそうではなかったので、唄えるようになりましたのは、このごろのことでございます」