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めいじんじごく
名人地獄
国枝 史郎
「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页
ある日甚三は裏庭へ出て、黙然と何かに聞き惚れていた。夕月が上って野良を照らし、水のような清光が庭にさし入り、厩舎の影を地に敷いていた。フーフーいうのは馬の呼吸で、コトンコトンと音のするのは、馬が破目板を蹴るのでもあろう。パサパサと蠅を払うらしい、かすかな尻尾の音もした。甚三は縁へ腰を掛け、じっと物の音に聞き惚れていた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、美妙な鼓の正調が、あざやかに抜けて来るからであった。
「ああ本当にいい音だなあ。……本陣油屋の逗留客だというが、何んとマア上手に調べるんだろう。鼓も上等に違えねえ。……『追分一丁二丁三丁四丁五丁目、中の三丁目がままならぬ』とおいらの好きな追分節の、その三丁目の油屋から、ここまで抜けて聞こえるとは、人間業では出来ねえ事だ。追分一杯鳴り渡り、軽井沢まで届きそうだ。それに比べりゃあ俺らの唄う、追分節なんか子供騙しにもならねえ。ああ本当にいい音だなあ」つぶやきつぶやき聞き惚れていた。
この時背戸のむしろを掲げ、庭へはいって来た若者があった。「兄貴!」と突然に声をかけた。甚三の弟の甚内であった。「何をぼんやり考えているな」