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めいじんじごく

名人地獄

国枝 史郎

「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页

青空文庫

甚三の馬が悠々と、主人の兇事も知らぬ顔に、一心に草を食っていた。その鞍壺へ手を掛けると甚内は翩翻と飛び乗った。ピッタリ馬背へ身を伏せたのは、手裏剣を恐れたためであって、「やっ」というと馬腹を蹴った。馬は颯と走り出した。馬首は追分へ向いていた。月皎々たる芒原、団々たる夜の露、芒を開き露をちらし、見る見る人馬は遠ざかって行った。草に隠れ草を出で、木の間に隠れ木の間を出で、棒となり点とちぢみ、やがて山腹へ隠れたが、なおしばらくはカツカツという、蹄の音が聞こえてきた。しかしそれさえ間もなく消えた。

余りの早業に三人の者は、手を拱ねいて見ているばかり、とめも遮りも出来なかった。苦笑を洩らすばかりであった。

「素早い奴だ、あきれた奴だ」

博徒姿の旅人は、こうつぶやくとニヤリとしたが、道中差しを鞘へ納めると、その手で菅笠の紐を結んだ。それから二人の武士の方へ、ちょっと小腰を屈めたが、追分の方へ足を向けた。

「失礼ながらお待ちくだされ」一人の武士が声を掛けた。拳隠れの構えをつけ、甚内を驚かせた武士であった。他ならぬ平手造酒であった。

「何かご用でござんすかえ」旅人は振り返って足を止めた。