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なつのはな

夏の花・心願の国

原 民喜

原民喜『夏の花・心願の国』。同一底本的分册已合并为一书。收入:夏の花、苦しく美しき夏、秋日記、冬日記、美しき死の岸に、死のなかの風景、火の唇、壊滅の序曲、廃墟から、鎮魂歌、永遠のみどり。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 152,816 字 · 310 页

青空文庫

彼はその街にある小さな図書館に入って、ぼんやりと憩うことが近頃の習慣となっていたのだ。

書物を閉じると、彼は窓際の椅子を離れて、受附のところへ歩いて行った。と、さきほどまで彼の頬に吹寄せていた生温かいが不思議に冷気を含んだ風の感触は消えていた。だが、何かわからないが彼のなかを貫いて行ったものは消えようとしなかった。閲覧室を出て、階段を下りて行きながらも、さきほどの風の感覚が彼のなかに残っていた。

それは沖から吹きよせてくる季節の信号なのだろうか。夏から秋へ移るひそかな兆なら彼は毎年見て知っていた。だが、さきほどの風は、まるでこの地球より、もっと遙かなところから流れて来て、遙かなところへ流れてゆくもののようだった。その中に身を置いておれば、何の不安も苦悩もなく、静かに宇宙のなかに溶け去ることもできそうだ。だが、それにしても何かかなしく心に泌みるものがあるのはどうしたわけなのだろう。

(人間の心に爽やかなものが立ちかえってくるのだろうか。)もしかすると何か全く新しいものの訪れの前ぶれなのだろうか。……彼はまだ、さきほどの風の感触に思い惑いながら往来に出て行った。