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なつくさせんき

夏草戦記

山本 周五郎

「講談雑誌」博文館、1943(昭和18)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 21,107 字 · 41 页

青空文庫

……さんざ時雨か萱野の雨か、音もせで来てという、伊達軍の出陣凱陣にうたわれる歌である、さすがに声はひそめているが、三人五人とそれに和す者があり、やがて暗がりのそこ此処から虫の音のわくような合唱になっていった。それはもう凱陣の歌ではなく、やみがたい望郷のおもいだった、敵地をくぐって強行するはりつめた時間から解きはなたれて、身も心もふるさとの山河へはせもどるいっときの詠歎だった。

「こんな晩はこれがさいごだろうな」新九郎がしずかな調子で云いだした、「こういう美しい星空を見ているとおれはきまって思いだす話がひとつある、かみがたにいたとき会った老人から聞いたのだ、老人はもと織田右府公の幕下にいたいわば無名のさむらいだが、長篠の合戦のとき本陣にいて見たことだという、……あのとき甲斐の武田勝頼の家来に多田新蔵という者がいて、敗戦のとき不幸にも織田軍の手に捕えられ、信長公の本陣へ曳かれて来た」

「多田というと多田淡路守のゆかりの者か」

「淡路守の二男だそうだ」新九郎は藁束の上でちょっと身をずらし、星空をじっと見あげながらつづけた、「……信長公は淡路守の子と聞いて、多田ならばおなじ美濃のくにの出身である、あらためて自分に随身せぬかと云われた、新蔵は黙っていた、信長公はさらに悪源太もいちどは繩にかかった、戦場では捕虜となること