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よるのちょう
夜の蝶
山本 周五郎
「家の光」1954(昭和29)年6月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,345 字 · 21 页
「この先に、この先の緑町二丁目に知ってる者がいたんだが、いってみたら引越しちまって、どこへいったかわからないんだ」
「あの辺は辰年(天明四)の火事で焼けましたからね」
向うの飯台から竹造が云った。
「おやじ、酒だ、それから味噌煮を一つ」
「こっちは濁ったのをくれ」と勇吉が云った。「ついでに汁のお代りだ」
旅装の客は自分の盃に酒をつぎ、ゆっくりとひと口すすって、大事そうに下へ置いた。塵よけの手拭を深くかぶっているので眼鼻だちはよくわからないが、日にやけた浅黒い横顔や、甲掛けから出ている手爪先や、また身妝のさっぱりとしたようすでみると、大きな商家の番頭というふうであった。
「どこへ隠れたの、高次、どこよう」
空地の向うで(また)女の声がした。
「京伝のお幸さんじゃねえか」蔵番の六兵衛が云った。「いまの声はお幸さんじゃねえか」
「なにか声がしたか」
「お幸さんは寮だろう」と勇吉が云った。「このあいだ、お梅どんに会ったら、ずっと寮のほうにいるって云ってたぜ」
与平が註文の品を盆にのせて飯台のほうへいった。鍋前にいる旅装の客は、ぎょっとしたように首を擡げ、じっと外のようすに聞き耳をたてた。