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しょうしょうしげもとのはは
少将滋幹の母
谷崎 潤一郎
「毎日新聞」毎日新聞社、1949(昭和24)年11月16日~1950(昭和25)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 83,234 字 · 160 页
のを禁じ得なかったのであった。実際、彼はもう少しで、
「お父さま、お願いです、私の大好きなお母さまを汚さないで下さい」
と、話の途中で幾度か叫びたくなったのを、辛うじて怺えたのであった。
そう云うことがあってから十箇月ばかりを経、明くる年の夏の終りに父は此の世を去ったのであるが、最期の折には果して色慾の世界から解脱しきれていたであろうか。嘗てあんなにも恋い焦れていたその人を、一顧の価値もない腐肉の塊であると観じて、清く、貴く、豁然と死んで行ったであろうか。それとも少年の滋幹が豫想したように、結局佛にも救われないで、再びいとしい人の幻に苛まれながら、八十翁の胸の中になお情熱の火を燃やしつゝ息を引き取ったのであろうか。―――滋幹は、父の内部の闘争がどう云う結末を告げたかについて確證は挙げ得ないのであるが、しかし父の死に方が決して人の羨むような安らかな往生ではなかったことから推量して、多分あの時の自分の豫想が誤まってはいなかったように思うのであった。
いったい、普通の人情からすれば、逃げ去った妻を諦めきれない夫として、その妻が彼に生んでくれた一人の男の子を、今少し可愛がってもよい筈であり、妻への愛情をその子に移すことに依って、いくらかでも切ない思いを和げようとすべきであるが、滋幹の父はそうでなかった。