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あるおんな
或る女
有島 武郎
1(前編)
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,981 字 · 295 页
こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに釘店のほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっと気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷池の端の或る曲がり角に来て立っていた。
そこで葉子はぎょっとして立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷の高台に隠れて、往来には厨の煙とも夕靄ともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの灯がことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんすの弾力のある軟らかい触感を感じていた。葉子の膝はふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり角の朽ちかかった黒板塀を透して、木部から稟けた笑窪のできる笑顔が否応なしに吸い付いて来た。