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ぬきうちししべえ
抜打ち獅子兵衛
山本 周五郎
「講談雑誌」大日本雄辯會講談社、1940(昭和15)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,930 字 · 24 页
三
「わあっ」
「わあっ」
群衆の歓呼を浴びて、獅子兵衛はにっこり笑いながら、金一枚をゆっくりふところへ入れてしずかに一周した。
「有難く頂戴仕る」
「…………」
同輩の者が慌てて藤兵衛の介抱に走せつけるあいだ、虎之助は獅子兵衛の顔を大きな眼で穴の明くほど睨みつけていた。
しかしなにも云わなかった。
見物人たちが云ったように虎之助は『鬼若殿』という綽名を持っている。貴公子でいながら、武芸はずばぬけてよくできるし家柄が物を云うので、今日まで江戸市中を思うままに暴れてきた。鬼若殿だと聞くと相当なあぶれ者でも尾を巻いて逃げだすくらい、名が通っている。かつてこんな失敗を演じたことはなし、そうなったらもう穏かに済むはずはない。
ところが、虎之助は黙っていた。そしてもっと意外なことには、供の者が藤兵衛を援け起したのを見るとひと言。
「……帰るぞ」
と云ってそのまま踵を返して立去ったことである。
三
根岸の里といえば当時はまだまったくの田舎で、呉竹のという枕言葉に相応しい竹藪と杉の森、雑木林の丘、田や畑のあいだに農家がちらばっている有様であった。……しかし、寛永寺が建立されてから、水戸家の下屋敷をはじめ、その他の諸侯の屋敷がぼつぼつ建ちはじめたので、あちらこちらの林が伐られたり、池が埋められたりしていた。