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りょかんについて
旅館について
山本 周五郎
「朝日新聞 PR版」1965(昭和40)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,912 字 · 16 页
私は独居生活をしているから、独り言を云うのは癖になっているが、山中とそのT館の御殿での二夜ほど、悪質で多岐にわたる独り言を口にしたためしはないと思う。それにつけても水の欲しさよ、喉の渇きはますますつよく、酔いもさめかけてきた。私はふと、元スイッチを捜しあるいていたとき、北側の廂の間になにかあるのを見たような気がし、立ちあがってそこへいってみた、――数年まえのときはそこに気のやさしい親切な女中さんが仮寝をしていたし、水屋が備えてあったものだ。箱根や伊豆の旅館では、ずっと以前から座敷ごとに冷蔵庫があり、各種の飲料や果物や、ちょっとした摘み物などが入っている。だがここではそんな備品がないばかりでなく数年まえにはあった水屋さえもない。ようやくみつけたのは、隅にころがっているタンサン水の空壜が一本だけであった。
「空壜が一本か、ちぇっ」私は舌打ちをした、「夜逃げをしたあとだってもう少しはなにか残っている筈じゃないか」
どうしようがあろう、私はその空壜を持って、水を汲みにでかけた。洗面所は母屋のほうにしかない。渡り廊下を渡って洗面所までは約二百メートルほどある。