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はるいくたび

春いくたび

山本 周五郎

山本周五郎『春いくたび』。同一底本的分册已合并为一书。收入:春いくたび、だんまり伝九、伝四郎兄妹、峠の手毬唄、初午試合討ち、梟谷物語、武道宵節句。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 70,094 字 · 142 页

青空文庫

……ほんとうのことは誰にもわからずじまいでしたが、旦那はそれからすっかり世の中がいやになったといって、屋敷や田地を手離したうえ、おゆきさんと二人でこの峰の峠茶屋をはじめたというわけですよ。――だが、おいらが思うには」

と五郎吉は話をつづけた。「旦那がこの茶屋をはじめたのは、ゆくえ知れずになった甲太郎さんをさがすためじゃないかと思うんだ。上り下りの旅人のなかにもしや甲太郎さんがいやあしないかってね」

「そうかも知れないな」

馬上の旅人はいくどもうなずいた。

「いや、ほんとうにそうかも知れない、……なんにしてもお気の毒な話だ、私もそこで茶をよばれて行くとしようか」

「そら、もうあすこへ見えてますよ」

霧がうすれて、峰のあいだから朝日の光がまぶしいばかりにさしつける峠道の頂上、断崖のほうに五、六本の櫟林があって、その中に一軒の茶店がたっていた。――五郎吉が馬を曳いて近よりながら、

「おゆきさん、お客さまだよ」

というと、十五、六になる美しい娘が走り出て来て、

「おつかれでございましょう、どうぞお休みなさいまし、五郎さん御苦労さまねえ」

と愛想よくまねきいれた。――さかしげな眼をした色白の少女で、いかにも由緒ある郷士の末らしく、貧しげな姿こそしているが身ごなし、かっこうには争えぬ気品がそなわっていた。