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つきのまつやま

月の松山

山本 周五郎

「キング」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年8月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,451 字 · 41 页

青空文庫

彼は突然その唇を醜く歪め、桂のほうは見ずに奥へ去った。

半刻ほど経ってから、孝也は母屋へいった。

寝ている信高の夜具の側に桂がいた。彼女は掛け夜具の下へ手を入れて、父の足をさすっていた。孝也が挨拶をすると、信高は枕の上でこちらを見、眼で頷いた。顔色は蒼黒く、骨のように痩せて、おちくぼんだ眼だけが大きく、生きている証拠のように、慥かな光りと動きをもっていた。――掃部介信高は一昨年の冬、卒中で倒れた。そのときは軽症だったが、半年ほどしてまた倒れ、こんどは半身が不随になった。それで病状に諦めをつけたのだろう、孝也に桂をめあわせて、茂庭の跡を継がせることにした。まだ表立って披露はしていない、孝也と桂の二人に承諾させ、披露の準備をしているうちに三度めの発作が起こり、全身不随になったまま寝ついた。

信高が婚約のことを心配していることは、孝也にも桂にもよくわかった。信高は口がきけなくなった代りに、自分の要求を眼で表現するようになり、桂もそれを理解することにすばやく慣れていった。七歳のとき母に死なれてから、ずっと父の側で寝起きしていたし、父の身のまわりの世話もして来たので、父の眼の動きを見てなにを求めているかを判断するのに、それほど暇はかからなかった。