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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

「そうそう、まだその外に煮染屋となったこともある」

と真勢さんは思出したように言って、そうした長い長い経験と、現に伊勢崎屋の店先へ来て腰掛けていることと、その間には何等のかかわりも無いかのような無造作な口調でもって話し聞かせた。

この人の傍に、まだ捨吉は若々しい眼付をしながら腰掛けていた。彼が学校に居る時分に、一度この人の住居を訪ねて見た時のことが胸に浮んだ。この人の蔵書が、古びた新約全書と、日本外史と、玉篇とであったことなぞをも思出した。

「そう言えば、僕は真勢さんに靴を造って貰ったことも有りましたね」

「そうそう築地の方に居る時分に」

それは真勢さんが築地の方のある橋の畔に小さな靴屋を開業していた頃のことだ。捨吉はまだ学校の制服を着始める頃であった。あの可成無器用な感じのする編上げを一足造って貰った頃から、捨吉は真勢さんという人を知り始めたのだ。尤も、真勢さんが基督信徒の一人だということを知ったのはそれからずっと後のことであったが。

周囲は何時の間にかひっそりとして来た。一日の暑さに疲れて、そこここの棚の前にはしきりと船を漕いでいるものがある。帳場の側のところには出入の職人のかみさんが子供を背負って遅くやって来て、出来ただけの箸箱でも金に替えて行こうとするのがある。