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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

誰にも打開けたことの無い自分の悩ましい心持が、神より外に誰も知るものの無いと思った自分の胸の底の底に住み初めた秘密が、岡見の手紙の中に明かに書いてある。

「こひすてふ

わが名はまだき

立ちにけり

人知れずこそ

思ひそめしか」

古い死んだ歌の言葉がその時捨吉の胸に活きて来た。あの時を経て無意味になるほど磨滅されたような言葉の陰に、それを歌った昔の人の隠された多くの心持がしみじみと忍ばれて来た。あの歌は必ずしも彼の場合に宛嵌るとは思われなかったが、すくなくも幼い心に於いて一致していた。彼はそこに自分の姿を見た。その姿は早や人目につくほど包み切れないものと成ったかとさえ思われた。

しかし同情の籠った岡見の手紙は、一旦は捨吉をびっくりさせたが、それを寄してくれた岡見の心情を考えさせた。何故岡見がその一夏の間鎌倉の禅堂に通うほどの思をし、何故あれほど身を苦しめ、何故あれほど涙の多い文章を書き、何故また自分のところへこうした慰めの言葉を送ってくれたか。勝子に向って開けた捨吉の眼は、岡見の為ることを読むように成った。そればかりではない。捨吉はその眼を青木にも向けた。何という矛盾だろう、世に盲目と言われているものが、あべこべに捨吉の眼を開けてくれたとは。