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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

大勝の御店により、石町の御隠居の本店により、その他大勝一族の軒を並べた店々により、あの辺の町の空気は捨吉に親しいものであった。ある町の角まで行くと、そこに岡見とした紺の暖簾を見つけた。奥深い店の入口から土蔵の方へ鰹節の荷を運ぶ男なぞが眼につく。その横手に別に木戸がある。捨吉はその木戸の前に立って鈴を押した。

麹町の学校や鎌倉の別荘に岡見を見た眼で、その時女中に案内された茶の間や数寄を凝した狭い庭先を見ると、何となく捨吉は岡見の全景を見たような気がした。そこには伝馬町あたりの町中とも思われないほどの静かさがある。その静かさの中に、遽かに親しみを加えたような岡見の笑顔を見つけた。

「妹も鎌倉から帰って来ています。よく君のお噂が出ます」

そういう調子からして江戸ッ子らしかった。岡見はもう何もかも呑込んでいるという顔付で、時々高い声を出して快活に笑ったが、でも顔の色は蒼ざめて見えた。

奥の座敷の方から涼子が復習うらしく聞えて来る琴の音は余計にその茶の間を静かにした。吉本さんの噂が出た。あの先輩の周囲にあるものが必ずしも雑誌社の連中のような崇拝家ばかりで無いことが、岡見の口吻で察せられた。